新しいインタフェース技術の原型は身近なところに

  • 黒須教授
  • 2007年1月23日

近年、HCI研究の牙城であったACM SIGCHIの大会はいささか低調になっている。本年のSIGCHI2006でも、実際的な面でのHCI技術の適用、すなわちユーザの分析やユーザビリティ、社会との関連性、組織的なHCIの推進などに重点がシフトしてきた傾向がある。以前のように、新しいコンセプトが参加者をワクワクさせることが少なくなってきたように思えるのだ。これはちょっと悲しい。以前から、どのようなうれしさをユーザに与えるのかをあまり考慮していないように見える技術中心のアプローチには批判的だった筆者であるが、ここまで低調になってくると「敵ながら」塩を送りたくなってしまう。

そこで、ここでは新しいインタフェース概念が、実は身近なところにある物事の概念化の結果であることを指摘して、新たな概念の発掘の後押しの一助とすることにしたい。

これまでにでてきた新しいインタフェース概念の例として、MITのSDMS(Spatial Data Management System)、インタフェース視覚化、バーチャルリアリティ、実世界指向、ユビキタスとモバイルを取り上げることにする。

SDMS
このシステムはモノの管理を名前ではなく場所で行うというところにある。その意味では、デスクトップに置かれたアイコンも同じような形で利用されているといえるが、そもそも日常生活において我々は生活空間の中で位置情報を利用していることが多く、その意味で自然な発想だったと言えるだろう。自宅やオフィスで何かを手にしようとする時、我々はその場所に行き、それを見つけ出す。その時に、その場所の名前を考えたりすることはない。このような日常的な行動を省みる姿勢があれば、そうしたモノの管理をコンピュータの環境に導入しようとするのは自然な発想といえる。この研究のポイントは、そうした日常行動をSDMSという形で概念化し、ネーミングを与えたところにある。今回取り上げる他の例でもそうなのだが、概念化とネーミングというのは大切な精神活動だ。抽象化し、概念化することによって、今度はそれを演繹的に活用することによって新たな局面が見えてくるからだ。
インタフェース視覚化
ビットマップ表示が一般化し、高精細表示が可能になり、動画表示能力が向上するにともなって、インタフェース視覚化の技術が進展した。Vistaに導入されている三次元GUIもその一つといえる。もともと人間は視覚に依存する割合が高く、また情報をテキストでなくビジュアルに表現することのメリットは、特にグラフィックデザインの伝統の中で十分に理解されてきた。グラフィックデザインは、視覚化の原則についてもその効果的なやり方や考え方を整理してきていたので、初期のGUIがそれらを参考にして成功したのは自然なことだったといえる。単なるGUIからインタフェース視覚化という技術領域にまで展開するにあたっては、様々な冒険がなされ、時にグラフィックデザインや視覚心理学の原則から逸脱したものも見受けられた。しかし視覚化という大きな方向性には間違いはなく、あとは如何にそれをユーザビリティの高いモノにするかという努力が必要なだけだった。しかしながら、冒険と検証、この組み合わせの重要性を理解している研究者は少なかったようで、冒険にとどまり、消えていってしまった研究も多い。
バーチャルリアリティ
実対象を情報表現という仮想の姿に置き換えるという行為を人間は昔からやってきた。たとえば手紙というのは、直接会えない相手に対して自分の考えや気持ちを伝える手段であり、バーチャルリアリティに一脈通じるところがある。その意味では、電話もそうだし、子どもの写真を大切にすることもそうだった。要するにバーチャルリアリティというのは、そうした仮想の姿をコンピュータ環境で実現したものだといえる。もともと仮想的な姿を利用することに慣れていた人間が、バーチャルリアリティについても好意的な姿勢を示したのはむしろ当然といっていいだろう。後はその技術を本当に有用に提供することだった。どのような場面でリアルでなくバーチャルな情報が有効か、どのような時に人はそれを必要としているか。この点をきちんと抑えていればバーチャルリアリティの研究は道を踏み外すことはないだろう。もちろん、技術的発想だけから考えようとする技術者は、時に奇妙奇天烈なつかいものにならないシステムを提案したりするのだが。
実世界指向
実世界を表現する人工物を実世界に持ち込んで、それによって実世界での行動を容易に、そして有効に効果的なものにしようとすることは、昔から人間がやってきたことだ。その意味で、実世界指向が受け入れられた素地はバーチャルリアリティと類似していたといえるだろう。方向磁石を頼りに、目に見えない方位を知って環境を移動することも、地図という人工物を見ながら目的地を探すことも実世界指向の原型といえる。またカーナビは実世界指向という概念化をされずにコンピュータを利用して提供された人工物といえる。カーナビは明らかに実世界指向インタフェースである。カーナビというコンピュータの中に見える世界は、裸眼では見えない実世界の情報を我々に提供してくれている。ただし、この場合も、どのような状況で、人がそうした人工物を必要とするかという反省や顧慮が大切である。何がなんでも人工物で情報提供をして実世界指向を、という姿勢では成功する確率は低くなる。
ユビキタスとモバイル
移動中あるいは移動先で必要なものを携帯するというのは人間の基本行動である。移動先においておけば済む場合もあるが、同じものをそこで利用するためには、人はそれを持ち歩かねばならない。ユビキタスとモバイルの基本概念はここにある。携帯するという行為を情報化したものがモバイルであるとすると、同等な環境をあちこちに構築するということがユビキタスの一つの側面でもある。腕時計を携帯することでいつどこででも時刻を知ることができるように、またあちこちに時計が偏在していることでいつどこででも時刻を知ることができるように、何らかの情報にアクセスすることをいつどこででも可能にすることを目指すならそれはモバイルであり、ユビキタスとなる。時刻を知ることを一般化し、それを情報生活の他の側面にまで敷衍するところにモバイルとユビキタスのポイントがある。もちろん、これまでの他の技術同様に、それが人にとってありがたいものである、という条件付きではあるが。

このようにインタフェースの新技術として登場した数々のものは、基本的に、従来人間が行ってきた日常的な行動やそのための環境を情報化したものにすぎない。情報化することによって、その利便性は一段と高いモノにはなるが、時に、方向性を誤ると、無理矢理の情報化によるおせっかいな無用の長物ともなってしまう。この点に留意しつつ、改めて我々の日常生活や日常行動を振り返ってみれば、そしてその中から概念化や抽象化を行うなら、新しいインタフェース技術へのブレークスルーを開発することはまだまだ可能だと思われる。要は技術に頼りすぎることなく、自分たち人間の日常の姿をきちんと捉える姿勢が大切だ、ということになる。