離散的インタラクションと連続的インタラクション

これまでのインタラクションの設計法や評価法は、やりとりの間に時間的な差がある、離散的なものを前提としていた。しかし、スマートホンの地図アプリのような、連続的なインタラクションのためには、設計法や評価法を新たに開発する必要があるだろう。

  • 黒須教授
  • 2013年5月20日

今回のネタはソシオメディアの篠原さんとお話をして浮かんできたこと。篠原さん、インスパイアリングなお話をありがとうございました。

さて、これまでインタラクションデザインは、やりとりという意味でのインタラクションを扱ってきた。そこでは、やり(action)と、とり(reaction)の間には、時間的な差があり、それぞれが離散的なアクションであった。いわば離散的インタラクションといって良いだろう。ボタンを押す、キーを押す、マウスをクリックする、これらはいずれも離散的なアクションでありイベントであった。わずかにマウス操作の一部に連続的なアクションが含まれていただけである。しかし、スマートホンやタブレット端末の普及のおかげで、それだけでは対応しきれなくなってきた。連続的操作が圧倒的に多くなってきたのだ。

たとえば、地図アプリを考えてみたい。ドラッグやピンチ操作で地図を移動したり拡大縮小したりする操作は、必ずしもその最終停止点が目標地点ではない。その動作をやっている途中で見える部分は、目的とする部分との相対的な関係を示すものであり、それなりに重要な役割を担っている。とすれば、ドラッグでもピンチでも、指が触った瞬間や離れた瞬間だけが重要なのではなく、指を動かしている最中も重要な情報を与えていると考えるべきだろう。

写真やネットショップの選択肢を探している時のフリックも、選んだものを移動するドラッグも離散的アクションではなく連続的アクションである。写真を探している時は、目的とする写真に至る間に、ああ、こんな写真もあったなあという記憶の再認が行われているから、やはり最終停止点だけが重要なのではなく、途中経過も重要である。ドラッグは、対象物を目的の場所に移動する動作だから、最終目的地が重要ではあるが、それでも目標地点に至る間の背景情報は、マウスでドラッグをするときと同様、まだ目標地点には到達していない、といった消極的な情報を与えているわけで、重要なものでないとはいえない。いいかえれば、その途中で表示を消してしまっては操作ができなくなる。そのような意味で、連続的なアクションといえるだろう。

ゲームとなるともっと極端で、それらすべての動作を駆使しながらゲームを進行させている。そして、地図アプリでも写真でもネットショップでもゲームでも、ユーザが連続的アクションをしている間は、やはり連続的に対応する表示を出している。したがって、こうした場面は、連続的インタラクションと呼ぶことができるだろう。

また、ウェブの場合には、操作の方は離散的でも、表示の方が連続的な場合がある。たとえばムービーを探していた場合には、そのムービーの再生が始まった瞬間をとって離散的にインタラクションを捉えることもできるが、再生中にプログレスバーを左右して、再生位置を動かしたりする動作は連続的である。

このように、連続的インタラクションの場面は、すでにあらゆる場面に浸透してきており、その最適設計の原理やその評価手法などを改めて確認する、あるいは新規に開発する必要があるように思う。

設計の場合で考えれば、たとえば地図ソフトの場合、倍率の設定は離散的になっており、ユーザはそれらの間で拡大したり縮小したりしている。そのため、さっきの倍率ではちょっと小さすぎるけど、今度の倍率では大きすぎて画面からあふれてしまう、というようなことが起きる。それを防ぐためには、倍率をほんとうに連続的に、といっても実際にはもって細かい段階での離散的な形に変化させられるようなインタフェースが望ましい。

また、たとえばインタラクティブ操作の分析や評価を行うために、ユーアイズの鱗原さんと開発したNEMがあるが、あれは離散的なインタラクションを対象にしたものである。したがって、連続的なインタラクションを分析・評価するためには、新たな枠組みが必要になるといえる。

離散には、大別して値の離散と時間の離散がある。どちらも刻みをこまかくしていけば、人間には連続しているように「感じられる」。その意味では、離散的インタラクションと連続的インタラクションとの間には連続性があるともいえるが、前述したように、現象的にはずいぶん異なって感じられるものだ。そこでこうした点については、新たな設計法や評価法を開発する必要があるだろう。

Original image by: Johan Larsson